軽妙ならざる足取りについて『私の恋人』

 視力補正器具なしには日常生活もままならないとなればなるほど動物としての欠陥を抱えているとの侮言も甘んじて受ける文字通りの近視眼である私だけれど、怪我の功名とはよく言ったもので顔貌以外のもので人を判別する技倆は年々高められてきた。とりわけ足取りには微妙だけれど確かに個性が表れる。ある歴史的背景を比喩的に軌跡や足跡と呼び習わすだけあって人やものの辿った過程は実にその外形や機能を明らかにするものだ。では私の場合はと言えば、身の丈に合わず尊大な足跡がべっとりと尾を引いている。

  這いよるものは混沌だろうとハツカネズミだろうと等しく恐怖を喚起するけど、現在時の私に連なる過去ほど怖気の振るう事象はそうない。モラルハザードの坩堝を抜け出すための受験勉強も、生涯を預けようと選んだ武道の鍛錬も、一期一会、一分一秒が無限に価値を持つような人々との豊穣たる交わりも、全身の筋力を振り絞っている最中に去来するあの虚脱感や充実感と共に通過してきたはずが、背後を振り返れば必ず行為としての手抜かりが惰弱さを実証するように張り付いている。死力を尽くしたあとに残っているのは溌剌とした輝かしい足跡などではなく膝小僧に食い入った大粒の砂利とアスファルトの欠片とあってはお笑い種だ。過去と未来とを問わず膝をつくことは穢れの感情を惹起させるけれど、いつか経験したその敗衄の上にこそ私たちが立脚すべき原点がある。後悔することも織り込み済みで蛮勇を振るうことの価値を思い起こさせてくれる小説があり、例えば上田岳弘『私の恋人』がその一つ。

 この一人称小説の語り手である「私」は生まれ変わりによって二つの時代を経て、作中では三つ目の生の中途にある。三つある生のうち一人目は現在時からおよそ10万年前のクロマニョン人、二人目は第二次大戦時に収容所に収監されたユダヤ人、そして三人目が現代を生きる日本人だ。超越的な知能の持ち主でコンピュータの発明から人類の行く末まで予見する一人目の「私」は知性に付き物の孤独を慰めるように想像上の恋人に思いをはせるようになり10万年の後、三人目の「私」である井上由祐は反捕鯨団体に参加する女性のキャロライン・ホプキンスに理想の面影を発見するというのが大まかなあらすじだ。

 地球の中で己がじし拡大し続けた領土をついに争うまでになった人類の地理的な、また文化的な変遷を日本人の井上由祐とオーストラリア人のキャロライン・ホプキンス両者間の関係と重ね合わせて描いていくこの作品には、常に敗北感のようなものが漂っている。例えば題にもなっている「恋人」を獲得するまでの過程に含まれている奇妙な苦渋。一人目のクロマニョン人は独自に開発した言語によって思考の中に沈潜していったため、対話相手は自分の脳内に創作した人々に専ら限られており、理想とした「恋人」を得るなどというギフトは望むべくもない。二人目のユダヤ人であるハインリヒ・ケプラーにしても事情はさほど変わらず、一人目の残した思索と「恋人」への思慕を反芻することで日々を過ごしていた彼は国外逃亡した婚約者とも離れ、収容所で餓死する無残な最期を辿る。三人目の井上由祐がやっと逢着したキャロライン・ホプキンスは理想的な知性と経歴を有してはいるものの、数年前に出会い死別した日本人男性の志を引き継いで活動をしている精神的未亡人の状態だ。知性によってはるかに勝る「私」はその男性・高橋陽平が占めている確固たる位置を転覆しえない敗北感に悩まされることとなる。

 またこの作品のエッセンスとして人類の足取りや社会情勢の解剖があるけれど、これは一つの賭けに近い。というのもそれは作者にとっての現実の表現であり、かつ社会的な共通項としての現実の表現だからだ。人類最高峰の知性である「私」によって開陳される現実の見方や歴史認識は作者の知性の限界も明らかにしてしまう。赤裸々な態度はいつでもリスキーで、敗北と背中合わせになっているこの著述の姿勢は瑕疵にもなりうる危うさであると同時に、人間の進歩を可能にしてきた傲慢さを陰に陽にあらわしている。己が限界の明瞭な表現はそれを超克する足掛かりそのものであり、更には絶望感の前に歩みを止めない人類全体に対する信頼の表れでもあるからだ。可能性を超過した自信はまさに傲慢と称される他ないけれど、その恐れを耐え忍んだあげく無残に敗衄する憂き目にこそ、土壌のしたたかさを感じることができるのではないだろうか。問題は傲慢がせめて負の価値にのみ堕しないように、それと釣り合うだけの死力を尽くす必要があるということだ。そしてそれができる程度には、人間は偉い。

 

(寝惚なまこ)