野方の方〜1軒目〜都民割と早く寝る

夜明け前が最も昏い

 

そんなわけないだろと思っていた。

 

しょせん体育会系の戯言で、結果が出る前が一番辛いから頑張れなんていう世迷言で、感受性のフィルターがストラックアウト方式の意識高い系が好きそうな綺麗事だと。

 

地平線のすぐ向こうに太陽が控えていて、夜明け前のいわゆる未明とは空が白む頃。指の先も見えないような暗闇ではなく、ほんのりと霧がかかる、曇りの日よりも爽やかで静かで終わりと始まりが混ざった時分。それが夜明け前。月のない朔の夜ならいざ知らず、そこまでお日様が来てるのに最も暗いわけはないだろうと、思っていた。

 

話は逆だ。

 

明るいのだ、夜は。

 

煌々とネオンが煌めき、車のヘッドライトが交錯する新宿の街。今日はこれからと言わんばかりに肩で道路を渡る仕事帰りの人。太陽は地球の反対側にいるはずなのに昼と紛うほどに夜道は明るく、星が見えないという点では昼空と変わりない。それが都会の夜。江戸時代ならいざ知らず、文明の光溢れる現代社会は夜も眠らず、太陽にかわって世界を照らす。

 

だけど、それもずっとじゃない。

 

夜が更け、人が去り、東の方から夜の暗幕が引かれ始めた頃、街は眠りだす。街灯が用をなくしひとつ、またひとつと消えていく。店が閉まり、喧騒もいつしか誰かの寝息にとって変わる。鳥だけが朝の到来を告げている。

 

町から人が消える時間帯、店の明かりが消えたーー夜明け前が一番昏い。

 

東京都は新宿のスグ近く、野方に引っ越してきて早一ヶ月。仕事が終わり、自転車を走らせれば9時前には家に着く。

 

知らない町の夜は一長一短だ。比喩ではなく、退屈を持て余してすぐ床に就くか、足りない何かを求めさまよい、結局一夜を棒に振るか。楽しい時間はあっという間、というのは遠い昔。落ち着ける場所が部屋の片隅しかない今は、なんとなく商店街をフラついて、収穫もなく帰宅して、翌朝の仕事に思いふけって眠るだけ。

 

この町にとって私はまだ客人で、歓迎の笑顔の裏には「できれば早く帰って欲しい」という腹黒さがちらほらと見え隠れする。いつお茶漬けを出されてもおかしくない状態。すでにどっぷりつかっているのかもしれない。先週3軒連続で「もう閉めるんで〜」と言われたときは心が折れた。まだ10時だぞ。小池百合子め……

 

寄る辺なく、所在なく。ふらりと立ち寄れる場所があればいいのにとうろちょろすること毎晩。もう24時間営業の牛丼屋を第二の故郷としてしまおうか。思い詰めていたそんなとき、視界の隅でネオンが煌めいた。

 

『CINEMA ber』

 

頭の中でのど自慢大会のファンファーレが鳴る。これだ。私が求め続けていたのはこういう店なのだ。交差点の角にひっそりと店を構える居住まい。枯れてんだが光ってんだか分からないネオン。飾らず、気取らず、新参者の私でも入りやすく、なおかつコアな話ができそうな雰囲気……居場所候補!

 

さっそく2階のお店へ上がってみる。階段下には「映画監督のやっている店」と書かれた黒板が置かれた。この時点で一瞬足がすくむも、勇気を出して入ってみる。バーの一見さん突入とはどうして毎度こう、緊張するのか。素人感は出しつつも、あくまで「いや私こういうお店慣れているんで?」といった姿勢で入店しなければ負ける気がする。

 

さながら初めて風俗店に行ったあの日のように。決して初心者とばれてはいけない。私は経験豊富なんだ。そうじゃないと呑まれてしまう……ただし初心者ムーブは時と場合により功をなすことは、確かにある。むしろおっかなびっくりしてるほうがちやほやされるまである。なんの話だ。

 

半開きになったドアから中をうかがう。秒でマスターと目が合った。敵情視察も何もない。意を決して店に入る。

 

(……部屋かな?)

 

第一印象はバーと言うよりも、スナックとか私の部屋のようなアットホームな印象。バーなんて3軒くらいしか知らないけれど、そのどれもより友達の付き合いで行ったスナックに内装は近い。赤を基調としている(ような)デザイン。席はカウンターが5つくらい。右手に低めのテーブル席が1つあり、さらに奥には上映用なのだろう、スクリーンがつり下がっている。

 

今思えば、あの雰囲気は昔ながらの映画館に寄せていたのかもしれない。ほら、名画座とかって赤かったり黄色かったり、どこかレトロな感じがするし。

 

先客が一人いた。

 

マスターに勧められるまま、その人の2つ隣に腰掛ける。地元にいた頃もそうだったけれど、カップルとか友人同士で来るならいざ知らず、一人で来た新しい顔というのは珍しがられる。もしくは話のタネがとっくのとうに尽きているのかもしれない。とにかく話しかけられる。

 

「こんばんわ」

 

中瓶500円。アサヒを頼んだのにキリンが出てきた。お通しをつまみながら、軽い自己紹介とこのお店についてのお話。案の定、映画の話はコアだった。そりゃそうだ。30以上も年上の人たち。マスターに至っては自主映画を作るほどの筋金入り。ニワカなのはばれているかもしれないけれど、持ち合わせている自分の好きな話を最大限口にする。

 

先客の人とは気があった。アニメの話題で盛り上がる。広く浅いオタクでよかった。好きな映画の話になって少し気取ったタイトルを口にしてしまったけれど、あのときは正直に話せば良かったのかな。まあ、それは次の機会に。

 

時間はあっという間。今日は早めに閉店するらしい。たまのイベントの日はやはり奥のスクリーンで上映会をするとのこと。また来てねと言われた。

 

実家を出て1ヵ月。ホームシックになるつもりもなったつもりも一切なかったけれど、気がつけば1日中地元、千葉のラジオを流していて、家の近くや通ったことのある道路の渋滞情報に相づちを打っている。ああ、あそこが混んでいるのか。あのお店美味しいよな。これもいわゆる、懐郷病なのかしら、と。

 

初めて行き着けになりそうなお店を見つけられて、ようやくこの町の一員になれた気がした。行ってみたいお店はまだたくさんある。今にも倒れそうな老人がやっている中華屋や生姜焼きオンリーで勝負している国道沿いの店。映画に出たことがあるというラーメン屋やいつ行っても閉まっているうどん屋。ひとつひとつ白地図に色をつけていくように、ゆっくりとこの町の住人になれたら。

 

私は今夜も居場所を探す。