文フリを終えて/令和元年登頂記念

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こんにちは、中の人その1、意気揚々と出向いたものの体調不良にあえなく撤退しさんざん周りの人に迷惑をかけた日笠です。もう二度とお酒は飲みません。

さて、先週末文フリ2019東京を経まして、ブースに来てくださった方には多大なる感謝を捧げるとともに、新刊も既刊もそこそこ手にとってくださり個人的にはもうこれでゴールでいいんじゃねぇかと、次回からは既刊だけ売って霞を食べて生きていこうかと思う次第です。

ダメです。

今後もさらに高みを目指して精進していきます故に皆様方にはあいも変わらぬごひいきを。

上げすぎたハードルは下を駆け抜けられるって言うしね。

 

さて、改めて完走した(してない)感想ですが

 

みなさん大変凝ってるなぁ、と滅茶苦茶参考になりました。次は私もブースを3次元に展開したいしなんならARなりVRなり展開してバーチャル受肉売り子として会場を風靡したい……風靡したくない?

(日笠)

 

 こんにちは。中の人その2、バーチャルYouTuber鈴原るるへの憧憬で蠕動する棘皮動物こと寝惚なまこと申します。上の日笠さんの文章は文フリ直後に書かれたものですが、続きを引き受けておきながら遷延に遷延を重ね令和元年の大晦日21時にとうとう筆を執った体たらくの私は23年前のリアル受肉の贖罪の方途を模索している最中で、非実在の美少女に転生できるならどれだけ公共の福祉に適うことかと打鍵する指の重鈍さに苦々しい思いです。

 

ご挨拶が遅れましたが、去る2019年11月24日開催の第二十九回文学フリマ東京に参加された皆さん、お疲れさまでした。またブースにお越しいただき、同人誌をお手に取っていただいた皆さん、ありがとうございました。文芸という営為が無聊の慰めや個人的な祈りの範疇を越えて意味を持つのだとすれば、それは作り手に依らない賜物であり、現実性とのまたとない邂逅の証言だと思います。そのような創作のため狂気と正気の両天秤を干上がった三半規管で支えながら今後も活動を続けてゆきますので、ご笑覧いただければ幸いです。

 

今年は二度の文フリ東京でお世話になりました。来年以降もどうぞよろしくお願いいたします。文芸畑はどうも生活破綻者が多いようですので、お体に気を付けてよいお年をお迎えください。わたくし寝惚なまこは爛壊した生活すべてを自室に置いてこれから高尾山に登ってきます。

(寝惚なまこ)

ファイナルデッドサーキットについて語ろう

クリスマスだってのに相方にプレゼントの1つも用意しなかった万年金欠な私こと日笠です。許せ相方……また今度な

 

みたまやとして、現行体制で活動を始めたのは今年のことですが、それもはるか昔のことのように感じられます。今年はお世話になりました。

おそらくこれが年内最後の記事になるでしょうし私が過労死すれば今生最後の記事となるでしょう。仕事忙しいぽよ。死ぬ前に文フリのお礼記事が上げないとね。早よあげろや。

 

さて、かねてから案のあった「なんかしらの評論をあげて顧客を手に入れる」という方針のもと、なんかしらの映画批評(もとい感想文)を書いてみるか、さてなんのことを書こうかしらどうせなら有名どころじゃないのがいいわね、でも心の弱いオタクだからしっかり有名どころを選んじゃう。いやまあSEOの観点からタイトルにぶち込んだけど『ファイナルデッドサーキット』(2009)の吹き替え版を見たという話

 

事故死の方がまだ楽に死ねたんじゃ……?

 

 

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今作は大人気ファイナルデッドシリーズの4作目に当たる作品。知らない人のために説明すると

 

「予知夢で死を回避! しかし回り込まれてしまった!」

 

という話。ほぼ全シリーズ共通。まあ私は初代と、次回作まで生き残った女のひとが「私は死ぬのよぉ!」と錯乱して死の危険性のない隔離病棟に保護(軟禁)されてるっていう始まりの話しか見てないです。あとこれ。

ある日突然予知夢に目覚めたなろう系みたいな主人公が見事凄惨な事故を回避するけど、それに負けず劣らずの酷い死の運命が生存者を追いかけ回す。

 

「人間ドラマも恋愛要素も必要ねぇ! 死ねっ!」

 

という監督の強い意志を感じられる。

 

ほんと、些細なことから死にます。

ぽんぽん死ぬ。

え、それで死ぬ? ってのが多い。

 

ストーリーの大前提として登場人物が死ぬ、というのがあり、観客もどうやって死ぬの? という期待を持っているからシリーズ物としての強みであるお約束が効果を発揮してるいい例だと思う。だって本当に、人が死ぬだけの映画だぜ?(褒め言葉)

 

シリーズ物であることの強みついては今度仮面ライダーの時にでも話すとして、本当に死なせ方が上手。1人死ぬと次の人物のターンなので、放送中はずっと人の死因を映しているし、こっちもいつ何で死ぬのかとハラハラする。

 

展開のわからない面白さと展開のわかる面白さって似てるようで少し違う気がしてる。だれかが「犯人がわからないのがミステリー」「犯人が分かってるのがサスペンス」と分けてたけど(今は明確に区分されてなさそうだけど)それに近い話なのかと。

 

要するに「この物語はどういう結末に進むのかしら?」とドキドキしながら見るのと「先の展開は分かっているが、どうやってその展開に進むのかが気になる」という風に見る違い。この場合は死ぬことは分かってるけどどうやって死ぬかが気になる、というロジックが成り立っているから面白いのかなと考えました。これ批評? 感想? 昔から感想文苦手なんだよな。上質なエンターテイメントは頭空っぽにさせてくれるからいいのであって、あれこれ考えるのは無粋では? という自分の観察眼のなさを棚にあげた持論を持っているから……でも語りたいこともある。上手になりてぇ、論評。

 

炎上の運命からは逃れられない……

 

人って何で死ぬかわっかんねぇしもっと気をつけて生きようという気持ちにさせてくれる映画だと思います。見て。

 

文責:日笠

(今回ネタ少ないな)

小説アーカイブ『ステップ』(寝惚なまこ)

   暑く湿った空気が呼吸するたびに肺に絡まりつくような六月の中旬、Tシャツは長袖のものを選んで着てきたのだが、肌寒さに時々肩が縮こまる。普段は後ろに流している髪を今日は結っているので、外気に曝される首筋が余計に寒い。鳥肌が立っている腕を水色の、薄い綿百パーセントの生地の上から撫でさすりながら、私は薄暗い森の中を、好き勝手に生えている雑草たちを踏み分けて進んでいた。背負ってきていたリュックサックにはロープやナイフといったアウトドア用品は入っていたが、防寒具の類は一切なくて、優先順位を間違えた私を森の冷たい呼吸が苛む。頭上を覆う木の葉は曇りの日の灰色に染まった分厚い雲のような圧迫感で、その隙間から零れる日の光はか細く、頼りなく、しとしとと肩を濡らす春雨のように降っていた。本当に濡れているわけでもないのに、光の雫ひとつひとつが肩を叩くたびに肌が粟立ち、それは波紋のように全身に広がっていく。
  草木の、植物の匂いが濃く立ち込めていて、こんなところに一時間もいたら服に匂いが染み付いてしまいそうだ。もっとも私はこの空気が、時々吹く弱々しい風に乗る、湿った、甘い匂いが好きだから、そんなことを憂う必要もないのだった。今日この森に分け入ったのも、半分くらいは、この空気に包まれて一人穏やかな時間を過ごしたいと思ったからだ。
  歩いていると少しずつ足が重くなってきているのに気付く。踏みしめるとき、さっきよりも深く地面に足がめり込んでいき、やわらかい土に足跡がくっきりと付く。このあたりから傾斜が始まっているのだ。今私が少しばかり本格的な登山に挑戦しようとしていることを改めて自覚し、もう少し先延ばしにすればよかったかと、爪楊枝の先に乗るほどの後悔が胸の片隅に埃のように積もる。それを吹きさらうように、少し強めの風が吹いた。ついでに括った髪が揺れ、露わになっている首が冷たい。ネックウォーマーを持ってくるべきだったと思うが、六月にそんなもの普通は使わないから押入れの奥のほうに仕舞ってあるし、そもそもこの寒さは予想していなかった。せめて本格的に踏み入る前に下見をしておくべきだったのかもしれない。
  今ならまだ引き返せる。目的の場所はこの山、といっても大したことはない、二時間あれば頂上まで行って戻ってこれるくらいの小さな山だが、その六合目あたりなのだ。私はまだ裾野に差し掛かったばかりで、ここまで来たらやるしかない、という切迫感にせっつかれてもいないのだ。だから今回を下見ということにして、また日を改めて、今度は厚手のセーターを着てネックウォーマーを持って、この山に来ればいい。
  引き返せる。その選択肢が目の前にぶら下がることで、却って気が引き締まる。今ここで歩みを止めて、来たばかりの道を引き返して家に帰れたら、山道を進む肉体的な疲労から逃れられたら、それはどんなにか楽だろう。それでも私が止まらないのは、今日という日を逃せばもう二度とこの山に来ることはないだろうということが分かっているからだ。大事な休日を、家に引きこもってお気に入りの歌手のCDをかけながらマンガを読み、コーヒーを飲んでいるだけで浪費してしまうような典型的無気力人間である私に、かねてから思い描いていたとはいえ、リュックサックを背負って登山をする気力の湧く日が来ようとは。青天の霹靂とはこのことであり、こんな珍事は私のように平凡に属する側の人間の前にはそうそう転がり込んでくるものではない。
  もしも、と今踵を返して家に帰り普段通り、時間を咀嚼し飲み下して何も排泄しない生活に再び戻る私を想像してみる。ザリガニの住んでいるような生臭くて汚い川を流れていく、空になったコンビニの袋みたいに、頽廃した空気に流されながら、醜く腐って自分以外の何かに変質していく、そんなやりきれないもう一つの未来が、陽を透かした葉っぱの緑のような鮮やかさで目の前に浮かぶ。額から流れ落ちて視界を滲ませる汗がそれを掻き消すのを待ちきれない私は、歩くペースを一定に保ちながらずんずんと進んでいく。山道を登り始めてから三十分ほどが経ったころには、全身が汗だくで、薄くても無いよりはましと思っていたTシャツもべったりと背中に張り付いて気持ち悪い。どうせこんな森の中に踏み入る人間なんていない――少なくとも私のような変わり者以外には――のだから、脱ぎ去ってしまっても構わないとシャツの裾に手を掛けるが、恥じらいとはまた別の、より後天的な私の一部分がそれを戒める。人間社会から遠く離れたはずなのに、いまだに私はその慣習の奴隷だった。曰く、外出するときには衣服を着用していなければならない、例外は海とプールと公衆浴場だけだ。あと売春宿。 ああでも、売春はそもそも違法行為だから勘定に入れるべきじゃないのだろうか。ではソープランドはどちらだろう。何にせよ、無造作に生えている雑草やがっしりとした木々をかき分けた先で、 服を脱ぎ捨て丸裸になるのは人間としての正常な営みから逸脱した振る舞いだ、ということを自分の中で確かめられれば良かったのだ。余計なことは思い出さなくていい。休日に、遊びに行くと言う父の後をこっそりと、ちょっとした探偵気分でつけていった時のことなんて。繁華街の奥まったところにひっそりと建つ、しみったれた外装と、道路に面した壁に貼り付けられた看板の煌びやかさがちぐはぐな印象を与えるビルの中に入っていく父の背中なんて。そこに漂っていたのは、アクリル絵の具で下手くそな風景画を描いた後に使ったパレットを洗い流した水が排水口に吸い込まれていくような力のなさ、自分の使命を果たしたのちの虚脱感だったろうか。

 でもそんなことはどうでもよかった。父が母と共に私という子を生し、その細胞の一部は私の体の中で今も分裂を繰り返しているのだという事実に、寒気が踵から項まで駆け上がり、内から膨れ上がるような熱さに汗の滴るほどだった体が少しだけ落ち着く。そしてその代償として、腹の奥に産み落とされたむかつきの卵。そいつが孵化してはらわたを食い破る前に、殺虫剤一リットルを口から流し込むか、宿主を屠るか。私は当然楽な方を、つまり後者を選ぶ。そうすれば、私の内臓という巣から這い出た蟻に体のあちこちを食い破られて苦しむこともない。私は、畢竟他人に舌を這わされ歯を突き立てられ咀嚼され嚥下され胃の中で消化されるのを嫌って、自分の指を喉に差し入れ飲み込もうとする、倒錯の生きた見本だった。
  人間というのは、禁断の果実を齧ったご先祖様のせいで、暖かくて平和で煩悶という言葉とは無縁の楽園を追われ、要らぬことをあれこれと考える苦役を背負うことを宿命づけられている。地上を這いずる私たちの肩に、背中に、腰にそれは深く食い込み、ごつごつしたアスファルトでも舐めながら、生きる意味なんて益体もない命題を解いて見せろとせせら笑う。私がたどり着いた解、それが倒錯だった。醜態を晒して、かわいそうな人だと憐れみを集めることが、私の生きる意味。それを体現するためにこうして山を登っていた。
  だんだんと傾斜が緩くなってきていた。歩幅を少しだけ狭めて、三半規管に意識を集中させて、完全に平らな場所を探しながら進んでいく。この辺でいいだろうと足を止めたところに、他と比べても一回り幹の太い木がおあつらえ向きに立っていた。枝に手を伸ばしてぶら下がってみると、硬くざらついた樹皮が手のひらに食い込み、そこに熱が集まっていくような感覚があったが、木の方は素知らぬ顔でびくともしない。強度も申し分ないようだった。
  一度地面に降りて、背負っていたリュックからロープを取り出し、ナイフでちょうどいい長さに切ってしまう。長すぎても短すぎても使い物にならないが、家で予行演習をした成果は十分に発揮された。あらかじめインターネットで調べてあった通りに輪っかを作り、もう一方の端を投げて、先ほどぶら下がったのよりもいくらか高いところに出ている木の枝に引っ掛ける。地上二メートル弱のところに輪っかが来たので成功だ。あとは踏み台の上に立ってそこに頭を入れて踏み台を蹴ってミッションコンプリート、と頭の中に描いた完璧な工程には不可欠な、踏み台という立役者が目の前の現実には欠落していることに気付いた。
  不法投棄は犯罪だが、粗大ごみを正当な方法で処分するのはお金がかかるから後を絶たない。私は人間の吝嗇さに一縷の望みを掛けながら、ある程度強度と高さと安定性のある、踏み台の代替品を探しながら森の中を彷徨う。
  長いこと坂道を歩いたために、酷使した足にはふわふわとした、雲の上を歩くような感触が付きまとう。そうして体感で五十メートルほど歩いたところで、きょろきょろとせわしなく動く視界が、錆と泥で汚れた小さめの、持ち運びを考慮した種類の脚立が転がっているのを、そして次に、そのすぐそばにいる何者かの影を、とらえた。驚きに肩が跳ねる。脈拍はその速さを増す。
  ボロボロのジーパンに暗い緑色のパーカーを着たその男の人は、三十センチほど地面から浮いていたから最初は幽霊かとぎょっとしたが、よく観察すれば何のことはない、ちゃんと肉体を持っている、人生の先輩だった。首から生えた、私の持ってきたのとは違って黄色いロープが、傍らに生える木の枝の根元あたりに括り付けてあるのが見える。背を向けているそれがどんな顔をしているのか、それはそのまま未来の私の表情でもあるから気になって、私は正面に回り込んだ。


「今度の日曜日、車出してくれない? 買い物行
きたいんだけど」
「日曜、日曜かぁ。悪いけど、日曜は大事な用があるんだよ。しかし珍しいな、お前がそんなこと言うなんて」
「いいでしょう、偶には三人で、お母さんも誘って買い物に行くくらい? 大事な用って何、お母さんよりも大事なものって?」

「そうは言ってもなぁ」
困惑しているのか、迷惑がっているのか、ある
いは両方か、そんな表情を滲ませた父に詰め寄る。私だってできることならこんな台詞は口にしたくなかったのだが、悠長に構えて手段を講じられるような落ち着きはすでになかった。登山をしてへとへとになって家に帰ってきた次の日の朝。私と違ってトーストを食べずに、コーヒーだけを飲んでいる父を捉まえて頼み込んだ。私はこの夏の流行がどうだとか、母が最近元気がないから楽しい休日を提供したいとか、自分でも本気で思っているのかいないのか判然としないことを、父を説き伏せるための材料として利用し、捲し立てた。
「分かったよ。そうだな、お前と母さんのためだもんな。父さんの用事は、まあ来週にでもなんとかするさ」
  五分か十分か、繰り広げられた押し問答の末にようやく父は折れたのだった。私は、ありがとう、と言いながら笑顔を作ってみせた。鏡の前で何度も繰り返した練習の成果、十七年という決して短くはない時間の積み重ねが生んだ一種の芸術、これにはそこそこ自信があるから、返礼として申し分ないだろう。
  結局、私は死ねなかった。あの先客の顔を見てしまった私は、荷物も森の中に忘れて逃げ帰ってしまった。そしてこれは昨日も思ったことだが、私は二度と、あの街のはずれにそびえる山に足を踏み入れるどころか、近づくことさえもしないだろう。自殺の名所として知られるあの場所に、自殺のできない私は近づく理由を持たない。人生の終着点に、いや、そこにたどり着く前の途中下車という選択肢に恐怖することを知ってしまった私の目には、自殺の名所たるあの山は暗澹とした雰囲気をまとう、隆起した土と植物の塊として映る。草木の香りを嗅ぐのが好きな私は、これから野草園にでも通うことになるのだろう。
  死ねないのなら、なんとか現実と反りを合わせるしかない。あるいは現実を掘削して、ひと一人がなんとか起居できるくらいの場所を確保するか。私は誰も殺さずに、自分自身も殺めぬように、父と共生していかなければならない。そのためにまずは、風俗通いから足を洗ってもらわなくては。ソープランドから父を、私とお母さんのいる家に取り戻すために、私とお父さんとお母さんが再び家族になれるように、目を細め、笑窪を作る。
  今日はよく晴れた、気持ちのいい一日になりそうだと、テレビの向こうに立つ気象予報士が言っていた。身支度を終えて家を出ると、ぎらりと攻撃的な太陽の光が半袖の制服から伸びた腕を焼いた。茹るような、燃え盛るような夏は、すぐそこまで来ていた。

 

 

※この文章は過去に他の媒体に寄稿したものに修正を加えたものです。

急げ! 転職君

こんな会社辞めてやる! と決意してからはや三ヶ月経ちましたが新社会人のみなさんはどうですか? 私は持ち前の優柔不断を存分に発揮して今も居心地の悪いデスクに身を落ち着かせております。こういうのも慣性の法則っていうんですかね。

 

こんなはずじゃなかった。私はもっとできる子だ。生き方さえ違えば星になれた。生きてるのが楽しいわけじゃない、死ぬのがめんどくさいだけ。長年培った生き方やり方ってのはそれまでの人生分加速をつけて背中を押してくるから止まるにしてもそれ相応の力がいるわけで、それするくらいならゆるくブレーキかけつつ軌道に従い続けて死ぬ頃には止まってるかなとかそんな感じ。

相手に冷めてきた、一年半目くらいの交際によく似てる。嫌いになったわけじゃないけど、あの頃のドキドキはなくなった。新しい恋を見つければ幸せになれるかもしれないけれど、もう少し我慢したらいいことがあるかもしれない。それは二年の記念日で? あなた覚えているかしら。赤い手ぬぐいをマフラーにしたあの日……歌詞は良く知らないんですけど。交際30年とか、夫婦生活50年とかすごいよね。よくもまあ惰性だけでだらだら続いたもんだよ。どんだけ初速早かったのかな。旦那さんが早(ry

 

こんな感じでいいのかこのブログ!? いいか、動き出したものは止まりにくいんです、勢いがついたら軌道修正も大変なの。車は急には止まれないし、セガのあの青いハリネズミ・ザ・ベッジホックだって曲がれない。オウッてなって周りにリング撒き散らす。てかあいつ人生で曲がったことあんのかな。基本前後上下移動しかなくない? ドッスンが上下運動なことに対しマリオくらいの有利しか取れてなくない? 

 

 

年を追うほどに止まりづらくなるほどに、ブレーキを踏めずに誰かを巻き込んで悲しみの淵で初めて歩みを止めれるように、転身も後退も停滞も前進も、それはきっと若い頃だけの特権で何かをするのに遅すぎるというのはやはりあるはずで、そんなだけどギャンブルするには難しい社会だし背負ったものも多すぎた。重いもの方がよく"かんせいがきく"。

この一文、一気に変換するにはやはりまだまだ機械も力不足らしいので、人間は人間なりに惰性でそれぞれのかんせいを働かせればいいんじゃないかと、雨の中歩いてて思った。家がもうすぐだとたとえ降られても傘差す気ないよね。なんかもったいない。これも物理法則なんだとしたら、ノーベル賞アカデミー賞もやっぱり一緒なんだよきっと。たまにどちらか間違えるもん。

 

最高速の新幹線から飛び降りたら体が粉微塵になるように、早すぎる時代の展開の中ふと立ち止まるってのはなかなかできないことなわけで。いや出来たらいいなと思ってるからこそできてる人を見てやっかみ嫉妬しぜつぼうするんですけどね。また私じゃなかった、って。何もしてないのに。

いやあれ立ち止まったのかな、どう考えても空挺のそれだろ、用意周到に、なおかつ完璧な地点に計算づくで降り立ってる。そんな作品がありました。

きっと儚いものの方が美しく見えるようにできてるんだと思う。それは自殺願望にもどこか近くて。風のように流れる車窓から見えた一瞬の風景が目に焼き付いて離れなかったり、消える流れ星があんなにもありがたかったり、いなくなる人の方が恋しかったり。いた時よりも大切に思えたり。後から見直されて評価される文豪もそりゃいると思う。だけど、今を生きる人が今を活きた作品に触れることも大切なんだと思う。そんな今を象徴するエンタメの流れが、私はこれも文学だと言い張るけれど、ツイッターにありました。ニンジy(ry

 

ごほん。

 

どーなっつ文庫。

 

ぜひ調べてみてください。

 

では来週。

 

(日笠)

 

 

 

そのうち思い、浮かぶ

「なんでもしていいよ」と言われると何もしたくなくなるのが人間というもので、それまであったたくさんのやりたいことがいざ自由にと言われるとなんでお前に従わなきゃならんのだ私はあくまで自由に、あれ、私のは一体何をしたかったんだっけ……自由ってなんだっけ……人とは……宇宙とは……

 

となるのが天邪鬼唯一神様に心奪われた私たちだと思うので今回ブログの輝かしき3記事め(輝かしい? メダルでいうと銅メダルですけどあれらしいですね、銀が一番資産価値は高いらしいですよ。だからというわけではないですがこの記事、待てど暮らせど記事を投稿しないサークル長に業を煮やし腹を立て海は割れ空は泣き出し人々は自由を求めて歩き出すように私もさっさと書いてしまおうと思ったので実質2記事目なんです。内緒だよ)を勤めさせていただくにあたり

 

あえて

 

なんと

 

何もしないということを実践します。

初回5回はブログの方向性を決める大事な時期だからある程度考えようといったのはサークル長でなく私ですがブログなんだしある程度自由に奔放にしようといったのも他でもない私です。いい警察悪い警察のように飴と鞭、するめと豆腐、陰と陽(いや二人とも陰の者ですが)役割を別けていければなと。警察の役目がサークル長、道化が私です。こんにちは、はじめまして、どこかで会った誰かはお久しぶりです。みたまやメンバー日笠と申します。お見知り置きを。

 

話が脱線しましたが政治だって脱線し放題だし5人轢くか1人轢くかしかない可哀想な例のトロッコの方がまだ進路が決まってるわけですし、それなら人を轢くことなく寧ろ人に引かれる私の方がトロッコの何倍だって偉いし脱線してもいいわけです。

 

自由という鎖に縛られていると昔の誰かは言いましたが、どれだけ社会から解放されようがルールから逃れようが社会は小さくなってどこまでもついてくるしルールは性懲りも無く生えてくる。真の自由とは悟りの開いた誰かにしか得られそうにないし、記事の締め切りは近いし、また泣き土下座なんてしたくないし、なら発想の転換で何もしないをしたらどこからともなく文章が浮かんできて海は凪、空に光溢れ人々は希望を抱いて歩き出すのではないかと思った次第です。

 

だいたい普段から小説のようなものを書くべくプロットのようなものに頭を悩ませてツイッターの140字だけはさらさらと出てくるような生き方を送っているのだからこういう文章もたまには悪くない。オチ? 執筆現在まだ考えてないので誰か助けてください。

 

自分さえも扱いきれない戯言に囚われながら、つらつらと毒にも薬にもならないことを吐き、たまにみなさんと共有できるようなことを書きます。小説の端くれとかも載せるかもしれないです。それで気になったら……気になったらどうするんだ。会いに来て? 私は会いたくないぞ。ネットの引きこもり匿名様だから声がでかいわけだしリアルに足先が触れた瞬間塩のかけられたナメクジのように溶けて春の風に乗ると思います。

 

だってね

 

自由って、困るよ。

 

単細胞生物なんで、なんでもしていいよって言われても、その権利を与えられても、それは必ずしも快楽ではなくて、むしろ欲しいものは無限に出てくるけどいつ爆発するかわからない取り外し不可の四次元ポケットみたいなもので。

それをぽいっと渡されても、なんとなく喜ぶことしかできなくて。ただそのなんとなくの中の明らかな不安や恐れがあって。世間様の視線が、自由を与えるだけ与えて放っておいてくれるならまだしも自由を与えた気になって、それでいて与えた分だけ返せ何かしろって、何もできない普通の人にはこの贅沢が怖くて。ただより怖いものはないって言うし。出てくる道具も使い方がわからなくて、持ってたらかっこいい気がして、とりあえず踊ってみて、気づいたら幕は降りて、ひとりぼっちのカーテンコールでした。踊りたかったわけじゃない。なんなら敷かれたレールに沿う方が性に合ってる人もいる。けど渡されたものを邪険に扱う気にもなれなくて、捨てる道も戦う道も使いこなす道もきっとあったけれど、それが出来なくて不安と罪悪感だけでこんなつらつらと長文を書いてるのは自己満足だとしてもやっぱり気持ちがいいので今後も楽しく可笑しく空っぽなりに、生きるをやろうと思ってます。それが私の今後の人生方針。

 

きっとみんなが考えているよりも自由ってのは思いの外自由ではなくて、自由研究だって全然自由じゃないし少年の夢見る自由もきっと今いる社会より一階層上の社会のことを指してるだけで自由ではきっとない。自由を謳歌してる風の例の小学生YouTuberだって、誰かに生き方を伝えたいっていうしがらみに囚われている。もはやそれは啓蒙ではなくて説教になっていて、自分自身の中にあるテンプレートを誰かに押し付けているだけになっている。きっと本来はそれぞれが美味しいものを食べたり悲しい気持ちになったり、自分で試行錯誤してるうちにふわっと内側から出てくるもんじゃないのかなって。どこを目指すわけでもなくふわっとそれっぽいことをなんとなく後ろめたいことだけはしてないというだらしのない人になりました。今年で23になります。仲良ししてね。

 

ほら、何もしないっていう自由を取りに行ったのにいつのまにか縛られてる。反面教師。いつか自分のちっぽけな何かがそれでもどこかの誰かのほんの少しの支えになれればと、そんな文章を書けるようになりたい。

 

赤信号みんなで渡れば怖くないって言うしね。そんな人が集まればいいと思うよ。だからって会わないけど。ネットリテラシー高い平成っ子なんで

 

また来週

 

(日笠)

軽妙ならざる足取りについて『私の恋人』

 視力補正器具なしには日常生活もままならないとなればなるほど動物としての欠陥を抱えているとの侮言も甘んじて受ける文字通りの近視眼である私だけれど、怪我の功名とはよく言ったもので顔貌以外のもので人を判別する技倆は年々高められてきた。とりわけ足取りには微妙だけれど確かに個性が表れる。ある歴史的背景を比喩的に軌跡や足跡と呼び習わすだけあって人やものの辿った過程は実にその外形や機能を明らかにするものだ。では私の場合はと言えば、身の丈に合わず尊大な足跡がべっとりと尾を引いている。

  這いよるものは混沌だろうとハツカネズミだろうと等しく恐怖を喚起するけど、現在時の私に連なる過去ほど怖気の振るう事象はそうない。モラルハザードの坩堝を抜け出すための受験勉強も、生涯を預けようと選んだ武道の鍛錬も、一期一会、一分一秒が無限に価値を持つような人々との豊穣たる交わりも、全身の筋力を振り絞っている最中に去来するあの虚脱感や充実感と共に通過してきたはずが、背後を振り返れば必ず行為としての手抜かりが惰弱さを実証するように張り付いている。死力を尽くしたあとに残っているのは溌剌とした輝かしい足跡などではなく膝小僧に食い入った大粒の砂利とアスファルトの欠片とあってはお笑い種だ。過去と未来とを問わず膝をつくことは穢れの感情を惹起させるけれど、いつか経験したその敗衄の上にこそ私たちが立脚すべき原点がある。後悔することも織り込み済みで蛮勇を振るうことの価値を思い起こさせてくれる小説があり、例えば上田岳弘『私の恋人』がその一つ。

 この一人称小説の語り手である「私」は生まれ変わりによって二つの時代を経て、作中では三つ目の生の中途にある。三つある生のうち一人目は現在時からおよそ10万年前のクロマニョン人、二人目は第二次大戦時に収容所に収監されたユダヤ人、そして三人目が現代を生きる日本人だ。超越的な知能の持ち主でコンピュータの発明から人類の行く末まで予見する一人目の「私」は知性に付き物の孤独を慰めるように想像上の恋人に思いをはせるようになり10万年の後、三人目の「私」である井上由祐は反捕鯨団体に参加する女性のキャロライン・ホプキンスに理想の面影を発見するというのが大まかなあらすじだ。

 地球の中で己がじし拡大し続けた領土をついに争うまでになった人類の地理的な、また文化的な変遷を日本人の井上由祐とオーストラリア人のキャロライン・ホプキンス両者間の関係と重ね合わせて描いていくこの作品には、常に敗北感のようなものが漂っている。例えば題にもなっている「恋人」を獲得するまでの過程に含まれている奇妙な苦渋。一人目のクロマニョン人は独自に開発した言語によって思考の中に沈潜していったため、対話相手は自分の脳内に創作した人々に専ら限られており、理想とした「恋人」を得るなどというギフトは望むべくもない。二人目のユダヤ人であるハインリヒ・ケプラーにしても事情はさほど変わらず、一人目の残した思索と「恋人」への思慕を反芻することで日々を過ごしていた彼は国外逃亡した婚約者とも離れ、収容所で餓死する無残な最期を辿る。三人目の井上由祐がやっと逢着したキャロライン・ホプキンスは理想的な知性と経歴を有してはいるものの、数年前に出会い死別した日本人男性の志を引き継いで活動をしている精神的未亡人の状態だ。知性によってはるかに勝る「私」はその男性・高橋陽平が占めている確固たる位置を転覆しえない敗北感に悩まされることとなる。

 またこの作品のエッセンスとして人類の足取りや社会情勢の解剖があるけれど、これは一つの賭けに近い。というのもそれは作者にとっての現実の表現であり、かつ社会的な共通項としての現実の表現だからだ。人類最高峰の知性である「私」によって開陳される現実の見方や歴史認識は作者の知性の限界も明らかにしてしまう。赤裸々な態度はいつでもリスキーで、敗北と背中合わせになっているこの著述の姿勢は瑕疵にもなりうる危うさであると同時に、人間の進歩を可能にしてきた傲慢さを陰に陽にあらわしている。己が限界の明瞭な表現はそれを超克する足掛かりそのものであり、更には絶望感の前に歩みを止めない人類全体に対する信頼の表れでもあるからだ。可能性を超過した自信はまさに傲慢と称される他ないけれど、その恐れを耐え忍んだあげく無残に敗衄する憂き目にこそ、土壌のしたたかさを感じることができるのではないだろうか。問題は傲慢がせめて負の価値にのみ堕しないように、それと釣り合うだけの死力を尽くす必要があるということだ。そしてそれができる程度には、人間は偉い。

 

(寝惚なまこ)

ごあいさつ

こんにちは。サークル『みたまや』主宰の寝惚なまこと申します。

文芸系同人誌の頒布活動を行ってきた私たちですが、活動や交流の幅を広げたいと考え、このたび新たにブログを開設する運びとなりました。

簡単に紹介をさせていただくと、サークル『みたまや』は小説など文芸作品を掲載した同人誌を頒布している文芸サークルです。大学時代に交流のあった友人同士で2017年に結成され、文芸同人誌の頒布イベントである文学フリマにて、サークル誌の『透視画法』や寝惚なまこの個人誌『陰火』の頒布を行ってきました。成員一同、これからも研鑽を積み、執筆及びサークル誌の制作に邁進してまいります。

このブログではメンバーによるエッセイや、小説を始めとする創作物の所感などを掲載してゆきます。他にも方向性を探りながら、色々なコンテンツを掲載できればと考えています。肩肘張らず気軽に読める文章を載せていく予定ですので、楽しんでいただければ幸いです。どうぞ、よろしくお願いします。f:id:mitamayashoboh:20190608230525p:plain

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